ひとくち法話(JaCR)

 

コミュニティは連帯の絆の柱(No.1)・・・・2013年7月号(63号)

Communityとは、『同じ地域に居住し、利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり』と言われています。

これを、外国に住み暮らすケースに当てはめると、既に有る村・町に居住しているだけでもコミュニティに参加しています。また、同じ趣味や目的を持つ仲間の集まりもコミュニティの一つです。

ぜひ、たくさんのコミュニティを作って、参加して、人間として生きる素晴らしさ、楽しさを見出しましょう。

松下しょうこう 『一口法話』より

 

一口法話『女人は“命”(No.2)』・・・・・2013年8月号(64号)

原始仏教のタイでは浮気はご法度です。(タイの僧侶は出家後100%だめ)日本仏教では、戒律の有る宗派は少ないです。しかし、仏教徒はお釈迦様のお教えを守っています。

鎌倉時代の日蓮聖人は、法華経信仰から教えています。女人成仏、平等思想からいくつかの言葉を残しています。『女人はおとこを財とし、おとこは女人をいのちとす』『おとこははしらのごとし、女はなかわのごとし、おとこは足のごとし、女人は身のごとし、おとこは羽のごとし、おんなはみ(身)のごとし、羽とみとべちべちになりなば、なにをもってかとぶべき・・・』『おとこのしわざは女のちからなり』、そして男女一体論として、『我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり・・・』などがあります。現代日本社会への警鐘になることでしょう。

タイでは女性がその役割をきちんと担っているようです。

 

口はわざあい(No.3)・・・・・2013年9月号(65号)

「口は禍の門」とは、誠意を持って物を言わないと思わぬ誤解や災い(禍)が生じる事があることの戒め(慎め)である。正直もいいでしょう。しかし相手のことを考えたならば古い傷や嫌っていることを言ってはなりません。

昔からのことわざにはいい文句がたくさんあります。『口を閉じて眼を開け』『口と財布は緊めるが得』そして仏教的には『わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心より出でて我をかざる』が好きな言葉です。

お釈迦様の教えには身口意(十善行)や八正道のことがあります。「口」は嘘、綺語、悪口、二枚舌の禁止のこと、八正道のなかでは『愛語』の勧めです。

タイに住んでいる日本人の人たちの日本語会話とタイの人たちとの日本語とタイ語の会話を聞いていると驚くことが多いです。男性の日本人の言葉が悪ければ配偶者も悪いケース、タイ語の上手ささではないが敬語がまったくなく命令調で単語派だけのケース、似た年齢者の方との交流が多いようだがマナーがタイ文化化して挨拶言葉がないケース、もちろん会話の内容は皆さん個人主義的な生き方をしているので問題はそんなに感じません。

ただできれば傾聴(人の話を聴く)を多くすることが大切です。  

 

感謝の心(No.4)・・・・・2013年10月

『日々“感謝”をして生きていますか』。食べられることや寝られることが当たり前とか当然とか思っていることはありませんか。

できれば1日を終えて寝る前に「瞑想や黙想」で<・・・・ありがとう>と、反省をし、一日無事に過ごせたことに感謝をして唱えてください。人によっては朝仏壇や神棚に「今日も一日健康で無事に過ごせますように!お守りください・・」言っている方も多いでしょう。其の報告や『感謝の心』が、翌日も無事に元気で生きる糧になります。

仏縁(出会い)は、結婚の相手から仕事や趣味などに生きるいい機会を提供してくれます。これらの出会いや仏縁に『感謝』です。

ある障害者の方の著書を読みました。「自分で何もできないけれど<ありがとう>の気持ちは表せます」と口で書いた書画を見ました。

恩や奉仕のなかの『感謝の心』は貴重です。親や上司、恩師などの恩の感謝もあるでしょう、助けてくれた感謝もあるでしょう。BS発祥の地イギリスBS(ボーイスカウト)には「道案内させてくれたことに感謝します。」とスカウトの奉仕と感謝の逸話があります。

私は、衣食住から文化全体にも「感謝」して生きています。毎日ご飯が食べられること、快適な部屋で寝られること、優しい美しい音楽・映画や自然に癒されること、いい言葉(愛語)に出会ったときにも感謝しています。決して物質的な豊かさがバロメーターではありません。幸せの基準は「感謝」に繋がります。基本的には「こころ」のことです。もう一度「感謝」を考え喜ばれることを実行してみませんか。

 

捨身に生きる(No.5)・・・・・2013年11月

立正大学の僧籍取得コースの一科目「宗学概論」の授業で庵谷教授が“あなたの捨身は何ですか”と、いきなり私に聴きました。咄嗟に「タイ文化研究と交流です」と答えました。

意味とニュアンスがすこし違ったようです。しかし《生涯の信仰》のことですのでまったくの間違いではありません。正解は、日蓮聖人が生涯の信仰に選んだのは『法華経』です。そのために命を掛けることでした。

世界大百科事典には「身を捨てて他の生物を救い、仏に供養する布施行のひとつ」と出ています。具体的な方法には焚身、焼身、入水、投身、断食、自害等があります。現代ではお勧めできない項目もあります。

私流の解釈は、代苦とか抜苦(慈悲の悲)より激しく、信仰の心を表したものでしょう。日本仏教は釈迦の誕生以来中国から日本に伝わった大乗仏教の哲学思想が「慈悲」「利他」ですので、それ以上の気持ちを「捨身」と言う言葉で表したものです。母親が子供を慈しみ(愛しむ)こころは育て生きるうえで大切な人間の基礎です。男性でも決してできないことではありません。ただ名誉や金銭のためであれば興ざめです。

〔捨身(しゃしん)に生きる〕はいつも人生を反省させてくれる素晴らしい生きた言葉と思います。

 

巡礼(遊行)をする(No.6)・・・・・2013年12月  

四国八十八ヶ所や西国と坂東の三十三カ所そして秩父三十四カ所が日本の巡礼先として著名。巡礼とは願を立てて霊場を巡ることで、古くは僧侶が、今は庶民が主役です。

仏教寺院以外「七福神巡り」では仏教と重なる神様やもともと日本の神様でないものもあり、神仏界は複雑です。普段から寺社巡りや功徳を積むことが大切です。

WATJAPANのあるメーカウトンタースット村の日本人Oさんは、今年2月奥さんを癌で亡くされ、9月10日から四国巡路にでています。ハガキには「こうして一笠一杖の旅を続けていると、人間生きてゆく上で、けっして多くのものは要らないのだなあとつくづく感じます」と野宿あり、民宿あり、寺泊まりありの巡礼の旅の報告をしています。

私も10数年前タイ人僧侶と2人でチェンライからチェンマイまでの約200キロを歩き、寺泊りしたことを思いだします。これは遊行(プラツドン)です。

お釈迦様は、人生を4区分に見立て林住期の次は、遊行期とおっしゃっています。

 

合掌と不軽菩薩(No.7)・・・・・2014年1月

「貴方を敬います」と合掌されたら、戸惑ったり、怒る人がいることでしょう。

法華経の常不軽菩薩品第20に<我深敬汝等 不敢軽慢>と出ています。この菩薩(仏陀になる修行中の僧)がいました。相手を侮ず、敬うことが無条件にできれば、悟りに近ずけるという教えのことです。人間の心は複雑ですが、その真理を明確にされたのはお釈迦様です。

狭い日本を脱出し、自由を謳歌しながらも他人の一挙手に執着していませんか。タイ人の信仰心と大らかさを学び、「貴方を敬います」的な生き方を新年のスローガンにしませんか。

   

「醍醐味」の今(No.8)・・・・・2014年2月号

この意味は、本来味覚の評価を5段階で表したもので、<最高の味>のことです。食べ物だけのことでなく人間の行為、生き方にも適用できる仏教【涅槃経】にある言葉です。

五味は、はじめからは乳味、酪味、生酥(しょうそ)味、熟酥(じゅくそ)味、そして醍醐味です。最上級の「醍醐味」だけは知っている方がほとんどでしょう。では人生を牛乳の味に例えることができるでしょうか。お釈迦様は、人の素質や能力そして説法の仕方のレベル区分にも適用しています。

“現在のタイでの生活は、最高ですか、幸せですか?”と、私は日泰結婚組みによく質問します。YESであれば、「醍醐味」で最上級・最高と言えます。不満を持って生きればレベル(味)は下がります。現在・今が修行の道場【悟りを開いた場所が道場:我是道場】であると再認識して生きて欲しいものです。


一念で挨拶(合掌)をする(No.9)・・・・・2014年3月号
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2014年1月号の「ひとくち法話」(合掌と不軽菩薩)の続きです。タイ人はよく挨拶や感謝などで合掌をします。その合掌発祥国のインド人は、いつもします。日本人も寺院や神社で合掌をします。仏壇を販売している「はせがわ」のコマーシャルでは“お手手を合わせ幸せ”が謳い文句。石川県の世界遺産の『合掌村』は、《合掌鳥居》などと同じその形を現している言葉です。

仏教的に分かりやすく良い話を聞きました。瀬戸内寂聴さんの説法本に出ていました。合掌したら「殺してはいけない」「盗んではいけない」「嘘をついてはいけない」「悪いセックスをしてはいけない」と言う戒律の一番重要な4つができない。と、解釈と説明をしています。又、戦前から日泰交流に尽力した在日タイ人の著名なミン・ブンヤスパーさんは、「タイ語のワイ(合掌)は日本語の<拝>と同じです>と、いつもおっしゃっていました。

タイの僧侶は、お経を上げるとき以外信者には合掌しない。“仏陀を尊敬する”姿を現しています。しかし、日本の僧侶は誰にでもいつでもします。挨拶であり敬意を表したりするのに理屈や傲慢さは要りません。心をこめて念じる合掌は大切なことです。